平和とは自力本願の上に

「世界の人々が平和でありますように」
初詣の際、私はこのように毎度毎度祈っていたものだった。ちなみに今年は行ってない。去年も行ってない。一昨年も行ってなかったと記憶している。その前も確か行ってなかったかな。初詣などと、常日頃から詣でなど行なっていないくせに、年の初めだからといって、とりあえず行ってやるなどと、それは神社に対して失礼な話だし、もうそんな行事は自分の中で終わりにしようと無意識的に思っていたのだろうか、分からない。しかし元日に墓参りには行った。

世界平和は祈らなかったが、精一杯やることはやると「伝えて」帰ってきたのであるが、これで良いと今の私は考えている。そもそも世界平和などと、そんな大それたことは絶対的不可能に近い程極めて難しい業である。集団ストーカーに悩まされていた当時、集ストが終焉して世界に平和が訪れますように。などと祈っていたあの当時、加害者を尊重することを蔑ろにして、ただただ自らの平和のみを祈っていたのである。これを自分勝手と言わずして、なんと表現すれば良いというのか。

だいたい、平和の定義など、その人の立ち位置によって違ってくるものである。私は私の考える平和がある、アメリカ人にはアメリカ人の、ブータンの人々にはブータンの人々の、北朝鮮、AA諸国の飢えた人々、パレスチナの人々、そして加害者には加害者の考える平和があるだろう、それを実現する為に互いが必死なのであるが、それで折り合いが付かない場合、互いの妥協点を見出し、主張すべきは主張し譲歩すべきは譲歩しといった形でお互いを尊重し合わなければ、全くフェアではないのである。まぁ尤も、集団ストーカーの場合は、加害者が被害者に対して一方的に加害を仕掛けている為、妥協も譲歩も糞も何もないのであるが、だからこそ、やはり、その行為そのものを尊重しなければならなかったのである。

「もう、立て続けに不幸になる!」
「私の名前は一切出さないで!」
「もう一切関わり合いになりたくないの!」

などと、自ら選択した平和の行く末であるにも関わらず、今更になってそんなこと言ったって意味ないでしょ。この世の因果律に起因した平和とは、自らの決断した意思及びその行動に対して、その自らを以ってして責任を取って得る、それが平和というものなんだから。

自らの平和の目論見が、逆に不幸に陥る。

これは、相手のことを尊重していないから起こること。尊重するとはどういうことか、平和とは何なのか。それを自ら全身全霊を以って考え、その意思と決断と、そしてその行動こそが、その自らの真の平和を得ることが出来る最も最短の術であると、現段階の私の心境として申し伝えたい。