かわいそう

集団ストーカーの被害の中で代表的なものは「仄めかし」である。

かつて、以前のブログである集団ストーカーと三島の記録を記載していた約5年前の被害者を募っていた頃、「かわいそう」という言葉の仄めかしに悩まされている女性が居た。私は当時その「かわいそう」という言葉の何処に仄めかしの要素というか、加害者の被害者に対する悪意が含まれているのか全く理解できず、そもそも、かわいそうなどという言葉は日常生活上に於いても極々普通に使われる言葉であって、それは集団ストーカーによる仄めかし云々の類では無く、それはそれこそ、その女性の単なる神経過敏に拠る云わば病的なものではないかと思ってしまっていたのであるが、しかし今にして思えば、その「かわいそう」という言葉こそが集団ストーカー加害者の本質を表している言葉であると思い至った。

「かわいそう」とは、基本的には主に不幸に在る人間に対して、その人を哀れんで慈悲心から発せられる言葉であるが、受け取り様に拠っては、いや、その言葉を発する側の、その際の心の態様こそが問題で、特にこの「かわいそう」という言葉は、善意悪意の表裏一体をなした非常に危険な言葉である。

人を心から哀れんでかわいそうと思い、そして思わずその言葉を発するのが善意だとするならば、以前当ブログで記載した、母ちゃんの金でFXをやって1000万溶かした子供に対する2chの数ある書き込みは、「ワロス(バロス)」「馬鹿じゃねーの」「かわいそう(笑)」であり、ここでの「かわいそう」の使われ方は、まさに人の不幸を踏み台にした上で、その者を蔑む形で使われる、要するに非常に悪意的な使われ方をした「かわいそう」という言葉なのだ。

しかも、この言葉が集団ストーカー加害者にとって都合が良いのは、先にも書いたとおり、善意悪意と表裏一体をなしている為、加害者側が幾ら悪意で発した「かわいそう」が真実であっても、いやいや心から慈悲心を以って「かわいそう」と言ったのであると主張されてしまうのだ。ここがまさに集団ストーカーの本質を示している部分である。

集団ストーカー加害者は、その自らの行為が犯罪であると認識していながらも、いや、極めて陰湿な悪意であると熟知しているからこそ、その犯罪を隠蔽する為に、本来は慈悲心で発せられる「かわいそう」という言葉を隠れ蓑に、とりあえず、とにかく、この言葉さえ発していれば、それを免罪符とさせ、その為には少なくとも自分の周りに居る人間を、そう思わせ込まなければならず、そこで行われているのは、

「悪意」から「善意」へのすり替え作業

なのである。
悪意で行っているにも関わらず善意の衣を無理からに被る。そして、それを如何にも周りに認識させようとする。この「かわいそう」という言葉は、そんな集団ストーカー加害者にとっては非常に都合の良い言葉であり、加害者の悪辣なるその体質をそのまま顕した言葉なのだ。

そして、それは偶然にも、というよりも当然のごとく必然的に、隠蔽非処女にもそれはそっくりそのまま当てはまる。集団ストーカーと違って非処女を隠蔽することは犯罪ではないし、自身の非処女としての正当性を主張するのは一向に構わない話だが、その自らの異性遍歴を隠蔽し、それを望まない者に対して、その者を欺く行為であったり、例えば私のような貞操を重んじる童貞に対して、あらぬ噂の流布或いはあらぬ嫌疑を掛け、それを集団の圧力で以って尚且つ継続的に及ばせる行為は、まさに「悪意」から「善意」へのすり替え作業であり、「かわいそう」なのである。

ただ、最後に一言申し上げておかねばなるまい。
非処女は、本質的には悪意でも何でも無い。
それは、自身で自発的に選んだ行動なのだ。
それはそれで尊重されなければならないのは、言うまでも無い。