被害者の被害者たる自覚と心得

「教育者であること」
まず、被害者は加害者に対する純然たる教育者であるという点を常に心に刻み込んで行動すべきだということを自覚しなければならない。

「善意で」
人に対しては必ず善意を以って接する。
これは仮に加害者であっても同様で、加害者は常に悪意を以って被害者に接したり対応したりなどするが、それに対して、そのまま悪意を以って対応するのではなく、あくまでも善意で対応を心掛ける。ここでいう善意とは加害者の本来の意図を知る・知らないといったことも含め、例え加害者の取っている行動が悪意であるという認識が自他共にあっても、あくまでも善意で対応をするのが鉄則である。この「善意」は加害者の最も嫌う概念でもあるのだ。

「悪意は持たない」
これは非常に難しいことである。
人間誰しも必ず悪意的な部分を持っている。私にしてもそうである。例えば心の奥底で巨大地震が来て世界が真っ平らになればいいなどと極めて悪辣な思いを抱いてる自分に気づくこともあるからだ。人それぞれ築いている世界があるというのに。また未だに加害者に対する悪意もあり、全ては自己責任であると認識しているにも関わらず、未だに拭い切れないの事実である。

「真面目に、そして謙虚に」
この「真面目」「謙虚」これも加害者の最も嫌う概念の一つである。
物事に対する取り組み、人に対する接し方、真面目で謙虚という概念は、人が非常に好む行為であり、人の好感を得ることもできる。特に謙虚さは極めて重要で、特に仮に卓抜した能力があるからといって、人を蔑んだり見下したりの行動は絶対に行なってはならない。思ってもいけない。思ってもいけないのは中々難しいが、これについては自身で徹底的に自制する必要がある。

「堂々と胸を張って言えるか」
これは恥についてと表現すると分かり易い。
加害者は恥をかくことを異常なまでに恐れているのだ。尤も、加害者の考えている恥の概念は実に俗物的なものが多いのだが、自身の今までの人生途上での様々な行為行動等について、包み隠さず堂々と他人に言えるかどうか。聞かれたら正直に言えるかどうか。仮に正直に言えなくても、というか言わなくてもいいが、例えそれが他人に知られたとしても、毅然としていられるかどうか。そもそも「恥とは何か」を様々な方面で経験したり、或いは見たり考えれば、それが如何程のものか見えてくるものである。

「羨ましがらない」
これは、嫉妬を根源にした感情で人を羨ましがらない方が良いということ。
人を羨望して、その人に近づこうとしたり、努力するのは非常に良いことではあるが、「あいつ幸せそう→憎い」などといった感情に発展などしたら最悪である。人はその歩んできた人生の結果として、今の状況があるのだ。それがどのような状況であれ、その宇宙は大切にしてあげなければならない。

そして、「如何にしっかりとしていられるか」
この「しっかり」としていられるかどうかが全てである。
どのような状況下にあっても、自身が自身で在り続ける事、これが全てである。誰のナニモノでも無い。自身が自身で在ること。


以上、ヅラヅラ述べてみたが、お気付きの方もいらっしゃるかも知れないが、上記の事柄は加害者には絶対に出来ないことである。絶対に。である。
加害者は、その持てる自尊心が異常なまでに無駄に肥大化し、その自尊心が他と分かち合うという基本概念が全く欠如した、いや元々は持っていたのであろう、しかし、余りにも自分勝手で傲慢な為に、他人を卑下することでしか自身を規定できず、また他人を卑下することで、そのような質の自尊心を肥大化させてしまい、その為には、自分の悪意を他人と共有しようとする。
要するに、他者をも巻き込んで悪に染めることにより、自分の悪意を中和させようとする悪辣な心理なわけです。また、そこを突かれると自身の存在自身を保てないのも事実です。

加害者を粉砕するには、その自尊心を徹底的に破壊すること。
自分が如何に悪辣な人間か、醜い存在か、徹底的に露呈して見せて示さなければならないということです。
その為の教育を、徹底した教育を、継続的かつ超長期的かつ徹底的に行なわなければなりません。
そして、それができるのは、被害者、「集スト善意の被害者」以外に為し得る「人間」は居ないのです。

真面目に、謙虚に、悪意を持たず、堂々と毅然とし、そして、「しっかりとした人間」の手本こそが、その徹底した振る舞いが必要なのです。