前提善意

まぁなんつーか、創価学会のことであるが、基本的には善良なる宗教団体という認識であり、というのも、カルトだの何だの云われていても、あくまでも私が把握する限りは、何も疚しいことはしていない、基本的には非常に真面目な人達で構成されているのではないかと思われるのと、といってもあくまでも私の主観であるが、実際どういった裏の黒い部分があるにせよ、少なくとも私が知る限りにおいては、黒い部分が見当たらないというか、何が言いたいかというと、

この人達は非常に善良で真摯なのであるが、その真面目さというのは一体何処から来ているのかなと、やはりそれは或る特定の人物というか教義というか、象徴のようなモノに対して、敬虔であり、忠実であり、その行動等は、特に損得勘定といった観点からモノを見ず、それはあくまでも、やはりその何かに則った形で形成されているものではないかとも思われ、

いや、結局何が言いたいかというと、私は昨日のブログで学会信者は集スト善意の素地がある人が多いのではないかという、そんな或る意味誤解を招くような表現をしてしまったかと今更ながら思っているという点があり、

要は、自ら進んで集ストに遭遇したか、それとも他の何らかの原因によって云わば包括的に、いや、包括承継と言った方がいいかも知れないが、そこに、その対象者の意思が存在したかどうかが非常に疑問であり、

人が何故、そのような行動を取るのか。

それは、自発的なものなのか、或いは何らかの外的圧力により止むを得ずといった消極的なものなのか、それに拠って大きく違ってくる、そのパワーは、その根源を形成するものは、抑圧によって生み出されるものであるとするならば、その道に進んで入った者よりも、知らずに入ってしまった、要するに、善意か悪意かに拠る要素が非常に大きいのではないかと思うのである。