石原発言は不適切か?

「我欲に勤しんだ日本人に対する天罰だ」
といった、今回の東日本大震災に対する石原氏のコメントについて、非難が殺到している。が、この発言は果たして本当に不適切な発言だと言えるのか、私個人的には甚だ疑問に感じた次第で。

外国メディアは、今回のような災害にもかかわらず、日本人は略奪などをせず、店に行くに際しても順番を守って並んで物を買うなど、実に秩序のよい品格のある文化だなどと報じているが、果たしてそうだろうか。

私は石原知事と同様、今回の被害に遭われた方々に対しては心からご冥福を謹んでお見舞い申し上げさせて頂くことは勿論、それは当然の前提としてあえて申し上げたいのであるが、やはり何らかの大きな力が働いたのではないかとの思いもある。

外人さん、騙されてはいけない。

などと、あえて言わせてもらうが、この一見秩序あるように見える文化というか、有事にも関わらず、店の前にできたあの行列こそが、人々の心の中に実は潜んでいる「強烈な我欲」の象徴と思えて仕方が無い。あの、特に外国メディアが報じた秩序ある行列こそが、日本人の外と内を強烈なアイロニーとして表現していると思えて仕方が無いのだ。

集団ストーカー被害者であれば、誰もが思うであろう。
略奪したいが出来ない。
それが悲しいかな現代の日本人なのである。なぜ出来ないか。犯罪になるから。警察に行かなきゃなくなるから。それよりも何よりも、自分が矢面に立って恥を欠くのがイヤだから。要するに、「自分が醜い人間だとバレるのがイヤだから」
これが現代の日本人の本音なのである。

バレなきゃ何をやってもいい。
バレなきゃ、働かなくても国民の血税を犠牲にしてでも年金を不正受給してもいい。
バレなきゃ、覗きをやってもいい。
バレなきゃ、人の心を蔑ろにしてもいい。

これが発展すると、「みんなで言えばいい」ということになる。
早い話が、全員を共犯にしてしまって、責任の所在をうやむやにしようとする魂胆である。「『みんな』でやっちゃえぱ」「『みんな』で言っちゃえば」の、この象徴たる「みんな」という言葉。
自分ひとりでは何も出来ないから、他者を巻き込むことで、犯罪を自身の中で中和させようとする悪辣な心理は、如何にも表向きは整然とした行列を作ろうとする、あの姿がまさに象徴的である。

強烈な嫉妬が内包された、このバレなければ、何をやってもいいという本音の反比例の対極として、表向きは「礼儀正しい人」「清楚な人」を必死に作り上げているのが、現代の日本人の本当の姿なのである。語弊を恐れず言うならば、それを身近に感じ取っている人間の想念が、ここらで一つ大きな試練を与えようとして、今回の力が働いたのではないかとの思いもするのだ。

今回のこの惨事、これだけでは終わらない気がしてならない。
いや、むしろこれから始まるのではないか。

全て丸裸になって、表に引きずり出される。これが出来ない日本人は淘汰される、ほんの近い将来、全ての人間が丸裸になるような、真っ正直な人間になる事を強要されるような、それが出来ない人間は淘汰されるような、そんな惨事が起きる。ような気がして仕方が無い。

丸裸になって、出直そう。
心の中の膿を出し切ろう。

俺は大賛成だけど。

殆どの人間は淘汰されるか、或いは自ら淘汰するか。
今回の地震で犠牲に遭われた方については、心から御悔やみを申し上げさせて頂くが、しかしある意味、実は幸運な人達だったのかも知れないなどと思ったりもする。