この世のしくみ

この世は、然るべくして因果律で成り立っている。

これは、特に最近になって実に身を持って実感していることである。
壁に向かって投げたボールが跳ね返って自らに戻ってくるのと同様、人に対して行った何らかの行為は、必ずその行為をした人間に対して何らかの形で跳ね返ってくるものである。

この因果律を分かり易く、人に見える形で表現されたものが法律であり刑罰だとするならば、人の行ったその行為が、ある特定の法律に反する行為と該当された場合などは、その因果が解消される場合もあるかも知れないが、それもある程度までで、実際は解消されていない場合が多いのも、また事実である。

しかも、法律や刑罰などで規定されている場合は、自らも、そして他者をも、それを免罪符或いは免責として見なし、因果の解消も進行することはあれ、後退することはないが、法律に拠らない刑罰、或いは法律に抵触しているものの、その違法性を認知しておきながら、そのような行為に走る事は、更に限度を増して間違いなく何からの形でその人加害者自身に返ってくる。その心因が極めて悪意だからである。

「何もしなかったのが『悪い』んだから」

全く以って、そのとおりである。
因果律における自己責任の取り方として最悪な行為行動は、自分が行った事に対して、「何もしない」ことである。
例えば、ある人に対して加害行為を行った場合、その加害行為を行ったにも関わらず「(被害者が)何もしなかったのが悪い」などと、まるで被害者に責任転嫁をするかのような、そういうことではない。
自らが行った、自発的に望んで行った、ある特定の行為。その及ぼす影響に対して、自分がどう対峙したかということである。そのような加害行為を行った後、加害者自身が被害者に対して「何をするか」なのである。

従って、表現的には、「何もしなかったのが悪い」のではなく、自分が「どのような形で責任を取るか」ということである。そして、その責任は被害者自身が望む責任の取り方であることは言うまでも無い。が、その心意を窺い知ることが容易では無く或いは不可能な場合は、被害者の望む形で因果律が返ってくる。

そういうものだ。