一歩前へ

この世は然るべくして因果律で成り立っているのは、先に述べたとおりであるが、その因果律に早い段階で気づき、いや、気づく気づかない関わらず、真っ当に人生を過ごす事こそがこの世の習わしであり、それは万人に共通して当てはまる、実に極々基本的な事柄なのである。

「悪いことをすれば地獄に行くし、いい事をすれば天国に行くんだよ」

こんな事を、恐らくは皆小さい頃から親或いは周りの大人から言われていたことと思うが、これは当たっている部分もあるが、外れている部分もある。実は天国も地獄も無い。在るのは、ただ自分自身のみである。ということである。天国を規定するのも地獄を規定するのも、はたまた煉獄を規定するのも、肉体という足かせを纏った、その人個人の意思決定にゆだねられ、全てを自明の名の下に決定し、そして規定するのである。

ある意味この世は修行の場であることは間違いない。それはこの肉体という足かせは、千差万別種々雑多であり、脳の出来不出来から容姿の良し悪し、身体能力の優劣などから、そこから自ずと差別感情が生まれ、自身の肉体が舞い降りたその歴史・時代に即した、その持てる能力を先天的に備えた人間が、その生まれ着いた「現世」に於いて、幾ばくかは他者よりも有意義な人生を送ることが出来るのは、これは例えば突然地球が爆発するなどといった余程の事が無い限り覆すことの出来ない理なのだ。だから個々人の肉体に相違があり、「生きて」行かなければならないのである。

その肉体を以って、この世に生まれた。
ここが天国であるか地獄であるかを規定するのは勿論本人自身であることは間違いが無いにしても、因果律を規定した所で、人間同士の感情の縺れや抗争などから、それによる常軌を逸した外的圧力、特に悪意を伴った凄惨な行為により、しかもその個人の意思決定では対処することが不能で、従って余りにも当初の予定とは掛け離れたものとなった時、凡そ肉体を持った人間では有り得ない力が身に付く場合もあるという事を、確固としてここに述べておかなければならない。

101匹目のサル現象という、幸島のサルの話は有名であるが、海水を付けた芋を食べた幸島のサルが100匹集まって「うめー!」などと強烈に心の中で叫んで、遥か彼方のサルに想念を飛ばしたように、人間個々人にも想念はあり、しかもその勢いはサルよりも遥かに強烈なる想念を個々人は有しており、その想念を良い方向にも悪い方向にも使うのは、紛れも無くその人個人の意思決定に全てがゆだねられるのだ。

再三繰り返すが、全ては因果律なのである。

ある特定の人間の想念が突然爆発した。
その想念を爆発させたのは、一体誰だ?! ということである。
その想念が突然自分に跳ね返ってきた。それは何故だ?! ということである。

摩訶不思議な。
有り得ない。
何故?!

思い当たる人は「今、何をすべきなのか」を深刻に考える必要がある。
地獄を選択するのも天国を選択するのも、その人に全てがゆだねられているのだ。
そして、それこそが因果律に起因した責任の取り方、所謂自己責任であり、真っ当に「人生」を送る、単純明快かつ最短の術なのである。