平に等しく

最近、本当によく考えるのであるが、平等とは一体何なんだろうかと。
まぁ今更でも無く、これは常日頃からよく考えてはいたことであったが、しかし、ここに来て、やはり平等とは難しいなと。人間は肉体を持っている限り、そしてその肉体は千差万別種種雑多であるが故に、そこから自ずと差別感情や嫉妬が生まれ、しかしそれでも尚、人は人として互いに助け合いながらも生きていかなければならない存在なのは、それはこの世がある意味修行の場であるということを鑑みれば、得てしてそのようなものであると、無理からにでも思い込まざるを得ないのか。と。

かつて我が国は平等であったと言われている。今のような格差社会ではなく、といっても大した格差社会ではないが、しかし、少なくとも20年ほど前に比べれば随分と格差が生じたものであるが、とにかく、一億総中流社会と言われていたバブル期頃までは、確かに日本人は皆平等であったように考えられる。一部の会社社長や医師や弁護士などの資格職或いは金儲けの上手い人間は別として、大体皆同じぐらい働いて、同じぐらいの収入を得て、年功序列というシステムも、そんな特に卓越した能力など無くても、皆同じように働いていれば給料は当然の如く上がって行くという暗黙の了解の上に成り立っていたのである。

丁度バブル期だったか、80年代の終わりの頃に読んだ本に、タイトルも著者も忘れたが、確か外国のビジネスマンが書いた本だったかに、「東大を卒業した三菱の社員が都内に家を持てない日本の社会システムは何かおかしい」という記載があったが、当時は確かにバブルで不動産価格が異常に上昇していた頃ではあったが、しかし、確かに大企業に勤める社員が、一社員とは言え、普通に会社の近場に家を持てないというのは確かに私もおかしいと感じてはいた。

当時の、というか、それまでの日本は、とりあえず会社にさえ行っていればいい、机に座って何かをしていれば、何をしているのか知らないが、とにかくそこに居て言われたことをやっていれば、真面目な人間として評価され、全く意味の無い生産性の無い残業とやらも、何故か会社に残っているだけで残業扱いで金が貰えるなどと、今にして思えば何処の御伽噺の国なんだろうかなどとも思えてもしまう。会社は潰れる心配も無く、経済は必ず右肩上がり、しかも年功序列で体が衰えてきても収入はうなぎ登りという、あのシステムに胡坐をかいていた人間は決して少なくはあるまい。

しっかりとした仕事をした人も、そうでない人も、とにかく会社に勤めてさえいれば、皆平等に金が貰えた、それが果たして本当に平等な社会なのか、いや、平等じゃない、能力のある人にはそれなりの収入を、しっかりした成果の出した仕事をした人にも、それなりの収入を、などと目論んで日本の以上のような社会システムはバブルと共に崩壊した・・・ いや、崩壊させられたと言った方がいいのか・・・ などとそう思えて仕方が無い。

しかし、残念ながら人間の能力というのは先にも書いたとおり、千差万別である。能力高く生まれればそれに越したことは無いが、そうでなかった場合はどうすれば良いというのか。しかし、それはそれで、それでも努力して自分のできることを生産性のあることを見つけ出して全うすることこそが、その能力に見合った収入であり、生き方でもあるのだ。そんなことは、かの国を初めとした諸外国の云わばグローバルスタンダードであったりするのである。

当たり前といえば、当たり前の話である。

とにかく利権にしがみ付き、或いは大した努力もしないで、それなりの収入を得ようとする考え自体が間違っているとも言える。

平等とは一体何なのか。
などと考える前に、とりあえず言えることは、これからの平等は間違いなくグローバルスタンダードに則って皆で育んで行く平等になることは間違いない。野田首相が常日頃から危惧していると言われている、

「このままでは、この国は間違いなく世界から取り残される」

この言葉、あのTPP交渉参加否かで揉めていた頃に発していた言葉らしいが、バブル期までの頃のように、世界に資本主義国家或いは自由経済社会を採用している国が少なく、従って経済が当たり前のように右肩上がりであった、あの20年前まではそれで十分通用したかも知れないが、世界全体が有機体のように繋がっている現在、もう我が国だけはなどと言っていられる状況では無く、世界と繋がった新しい平等を、今こしらえて行かなければならない。ということなのか。