超監査役

集団ストーカー被害者というか集スト善意の被害者は、加害者等に対する純然たる教育者であるということは先日述べたとおりであるが、と同時に、その行動・言動等について、常に監査をする立場であるという自覚を徹底して持たなければならない。
これはいわゆる基本法というか商法256条辺りなんかで規定するところの文言だとか監査特例法などの我が国で規定する処のルールに則った、といってもこれは株式会社法人に限った話であるが、というかそんな枠に捉われず、ありとあらゆる面において、その行動・言動等について、その人間の持つ全ての面に対して常に徹底して監査しなければならないということである。

人が人を監査する。

これは例えば先に書いた法人の監査も含め、自然人に於いても例えば公務員の監察、私企業内の内部調査等、それはその団体が任意に選んだ人物が、或る特定の人物或いはその団体に所属する人間に対して監査対象を決めて行なうものであるが、集団ストーカー善意の被害者の行なう、というか行なうべき、行なわなければならない監査は、その集団ストーカー善意の被害者に接触する全ての人間に対して為される、通常のいわゆる監査役の範囲を遥かに超えた、超監査役という立場に立たされるのである。

この監査の効力は絶大なものがあるが、しかし絶大であるが故、自らをも徹底的に監査しなければならないという諸刃の刃とも云うべき、非常に危険極まる業である為に、集スト善意の被害者の行動、それは一挙手一投足、普段の何気ない言動に至るまで、徹底して自らを監査して初めて人に対する監査の役を与えられる、というかそのような立場に立たされてしまうわけだが、この責任は非常に重大である。

自らを厳しく律しない以上、加害者及び集スト悪意の人間に対して教育など出来る筈も無いし、まして監査など出来る筈が無く、そもそも監査をするということは、その監査でNGとなった人間は、その人生途上で計り知れない甚大な不幸に遭遇することになるのだから、自らが悪意ある行動或いは怠けた行動を取ると、その因果は確実に集スト善意の人間に跳ね返ってくる。従って、跳ね返ってくるのが怖いからなどと、そのような理由から自らを常に厳しく律して自らを監査する場合もあるかも知れないが、しかし、そのような考え・行動に及ぶような人間は、そもそも集スト善意の人間たる人物として選ばれないだろうし、まして監査が出来るほどの、人の人生を狂わせるような力・想念を得られる筈も無い。法人の監査、職員に対する監察、調査等、その監査等を行なうその人物の性根が悪意で腐り切っていても、他の人間はそんなことは知る由も無く、その監察等をしている人間によって処分されたりするが、集スト善意の行なう監査は自らが堕落すると、間違いなく自らも不幸に陥るように出来てしまっているのだ。まぁ尤も職員等に対する監査等を行なう人間も、因果律の規定によって、それ相当の不幸には陥るだろうが、実際にその監察対象も悪意であったら上手く相殺されるということか。全く上手くできてやがる。

集スト善意の被害者は、その自らの力を自覚した時、徹底して自らを監査しなければならない。人に対しては常に真摯に。基本誰に対しても態度を変えず、礼儀正しく、正直に申告し、言われた事は素直に受け、自分の感情を優先せず、肉体的楽をしようとせず、楽なことは出来得る限り人に譲る。

何故、自分は監査なのか。
その証明を公然とする為にも、徹底した善意ある律を自らに課さないことには、幾ら内弁慶で情けない加害者等の人生を不幸に陥れたところで、というか、それは加害者等が自ら選んだ道なのであるが、しかし、人の人生を左右させる力を持っている以上は、その行動規範は極めて厳しく律しなければならない。

だから、集スト善意なのか。と。心底思わせる為に。考えさせる為に。教育をする為に。