見えた!    ・・・ような気がする

「見えた」と思って、また「見えた」と思って、結局それは何も見えていない、いや、何も見えていないわけではない、見えたと思い込んでいた、そんなお話なわけで。

芸術家は、創造した自身の思いを至高の作品として完成させるが、いや、これは違うと思い、更に至高の創造された作品を世に現す、が、暫くしてこれでは未完成だと思い至って更なる自身の至高の作品を完成させるべく創造に着手する、そんな無限ループ、「見えた!」その見えたものが実はまだまだ見方が足りなかった、今ここで「見えた!」ものも、暫くすれば何を稚拙なことをなどと思うのだろう。実際数年前も「見えた!」などとブログに記載したりして、今にして思えばあの頃は見えていなかった。というか見方が足りなかった。これまでのブログを読み返して、そんな気がしてどうしようもない。
自分で言うのも何だが、稚拙な能書きを垂れた駄文が目に付いて仕方が無い。

実は、今こそ本当に見えた! と思い至っているのであるが、数年後はどう思うのだろうか。

ま、これも一つの「記録」なんでね、別にいいんだけどね。

普段生活をしていて思ったことをそのまま書く。
ネットを徘徊して、思ったことをそのまま書く。

それで自身の意識の変化も見て取れる。
面白いと言えば面白い。

そうだ、そのとおり。
面白ければ良いのだ。

その「面白い」とは、納得できれば良いということなのだ。
納得できなくとも、というか、納得の出来ないことがあっても、後になってその行状が納得出来る何かの糧・肥やしとなる行状であれば良いのだ。
というよりも、そのように出来ている。

何故、自分は被害者なのか。
そんなことも含めて、後々になって更に色々と気付くこともあるだろう。

とりあえず、今の段階で確信を以って言えるのは「意思」と「視点」という事だ。

本当に、見えた!






・・・ような気がする