うんこ

人間は結局うんこである。
というか、世の中のありとあらゆるもの、それはうんこ、うんこの賜物、いや、うんこそのものなのだ。

アイドルはうんこなんかしない。可愛い女の子はうんこなんかするわけがない。

いやいや、してますって。大きなうんこをね。だってアイドルそのものがうんこなんだから仕方が無い。

小学生の頃、学校のトイレでうんこをしたというだけで、そいつは下手をすると転校などという騒ぎになったものだったが、学校でうんこを漏らしたのではない、学校のトイレでうんこをしたという云わば真っ当で正当な行為をしたにも関わらず、何故転校などという騒ぎになるのか、年齢を重ねた今となっては本当に笑い話以外のなにものでも無い訳であるが、当時は真剣だったのだろう。

まさに糞としか言いようが無い、このうんこ話は全ての事項に共通するもので、要するにその当時、その時期、その時代、その年代に於ける自身の中にある価値基準、それは勿論、実に実に狭い範囲での周囲の価値基準に依存した上での云わば「恥じらい」のようなもの、

特に根拠も無いのに「であるべき」という、うんこ基準というか、まぁ何と言うか、つくづく人生は茶番であると嫌が上でも認識せざるを得ない。

私は44歳の童貞であるが、「いい年して童貞」などと随分前から言われ続けて来たが、最近は流石に言われることも少ない。童貞=恥であるという価値基準が年齢を重ねるに連れ、そんなことは人生途上で大したものではない、いや勿論人それぞれ価値基準があるので人に拠っては大したものではあっても、童貞であるという理由で別に人から揶揄されることでもなければ、まして白い目で見られることでもないといったことに或る程度の年齢に達すると、或る意味どうでもいい事柄ともなってくる、まさに小学生時代のうんこ話そのものなのだ。

昔は男たるもの、30までに蔵の一つでも建てなければ男ではないなどと云われた時代もあったらしいし、蔵とまでは行かなくても、私の父親の世代は一軒家を建てて一国一城の主になることがステータス、というよりも云わばマイホームが義務化されていた風潮があったかのように思えたし、その根底にあるものは「であるべき」という、いわゆるうんこ基準、誰が仕組んだのか知らないが、その仕組まれた茶番の中で、その仕組まれたうんこ話に翻弄され、人はモノを食べ、うんこを日々垂れ流しているのだ。

うんこ基準は年齢に拠って変化する、性別によっても違ってくる。生き物によっても違ってくるだろう、それこそうんこレベルで云うならば、人間が作った無機質な便器にもうんこ基準は存在するかも知れない。「俺はTOTOだから勝ち組、お前はINAXだから負け組み」などと便器同士でいがみ合ってるかも知らん。

生態系の頂点の如く君臨している人間の価値基準は、もっともっと上に存在するかも知れない或る生命体からすれば、実に実にくだらん価値基準、うんこ基準、仕組まれたうんこ製造機としての人間が、生き物が、一生懸命日々生活し、うんこ基準に則った、プログラミングされた生命体ではあるが、その生命体の中から更に特別突出した何か意外なモノの発見のために、ストレスを与え、というか仕組み、どれだけの耐性があるのか或いはどうすれば只のうんこ製造機から脱却できる別の生命体に生まれ変わることが出来るのか、そんなことを仕組んでいる、そんな別次元の生命体が存在するかも知らん。

うんこならうんこで別に構わないが、しかしうんこにもプライドがある。

うんこ基準によってその垂れ流されたうんこの価値とは何か。
やはり大きさや質といったところだろうか。
確かに大きさや質も重要であるのかも知れないが、それ以上にどういった経緯でそのうんこを垂れ流すに至ったのか、その過程が重要なのではないか。

その過程で如何に面白い、その人独自のうんこをしたか。如何に気持ち良くうんこをしたのか。

小学生時代はうんこそのもの、思春期から青年期に掛けては異性関係の有無、勉強の出来不出来、そして結婚、収入、出世、地位、名誉、年を重ねるに連れてうんこ価値基準は変化するが、これが肉体が無くなった魂レベルとなった時、一体どんなうんこ話が繰り広げられるのか。

その肉体を身に纏って、その歴史舞台に舞い降りて、その価値基準の中で、

「あなたは一体何を学んだんですか?」
だとか、
「お前、一体何やってんだよ、つーか、何やってたんだよ?!」
「じゃあ、お前は仮に男(女)の肉体に生まれたら、あんな行動が取れたか?!」
「じゃあ今度は、お前は女で不細工コースで行けな」

などといった罵り合いが行われるのだろうか。