セカンドバージンという糞バージン

純粋に処女ではない女が、バージンという言葉を使って、自らを清廉で清楚な女であることを強要させるかのようなこの言葉は私は大嫌いなのであるが、まぁなんつーか、こんな言葉を使って、自らを誤魔化して相手を欺網に陥れるとか、よくもまぁこんなことが出来るなと。どんだけ人間性が醜悪なんだって思うね。

バージンロードという言葉もそうだが、バージンでも何でも無い女がバージンロードを歩くとか、矛盾しているという表現を通り越して、既にドリフ大爆笑の世界である。

中身など何だっていいのである。
何か、カッコいい、カワイイ、それだけでいい。
体裁が整えば、というか整ったように「見えれば」それでいい。
「聞こえれば」それでいい。
勿論、その主体は本人ではなく他人である。

考えて見れば、というか、この国は全てが形骸化した儀式で成り立っているようなものが多い。正月には神社に行き、お盆には寺に墓参り、結婚は教会か、これまた神社。そしてクリスマス。もう無茶苦茶w。これがいわゆる島田裕巳が云う所の日本教であるが、

主体と客体が入れ替わったこのセカンドバージンは、現代に巣窟する隠蔽非処女が最も醜くも自らをさらけ出した、極めて悪質な造語である。

にも関わらず、この造語が余り世間に浸透していないのは、「バージン」という言葉、そしてそこから連想される清廉・清楚という意味合いすらも隠蔽したい、要するに、この世から「処女」という概念すらも無くしてしまいたいという、今更哀れな非処女の意図が見ても取れるのだ。

堂々とすれば良いのである。何も悪いことはしていないんだからw